神社で楽しむ NHK大河ドラマ『平清盛』

新しい平清盛像を提示してくれたNHK大河ドラマ「平清盛」。大きな野望を達成した清盛の行く末をドラマで見届ける前に、清盛の軌跡をたどってみませんか?
1.不良少年、高平太登場! ~ 石清水八幡宮


ギャンブルにはまり、ケンカにあけくれ、「俺はオヤジみたいにはならないぜっ!」という反抗期を過ごしているお金持ちのおぼっちゃま、平清盛(松山ケンイチ)こと高平太。高平太が無理矢理元服させられ、「清盛」という名を授けられるのが、ドラマの第二回放送でした。
伊東四朗さんが白河法皇のはまり役で、“もののけ”という表現がぴったり。怪しくて気味が悪い人物像が迫ってきて、物語をキリッと引き締めていましたね。
クライマックスは、清盛が白河法皇の前で舞を奉納するシーン。この舞が奉納されたのが京都の石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)です。
石清水八幡宮は、八幡宮総本社の宇佐神宮(うさじんぐう)から勧請され、平安時代前期に建立。都の裏鬼門(南西)を守護する国家鎮護の社として皇室をはじめ、公家、武家からも篤い崇敬を集めてきました。中御前に応神天皇(おうじんてんのう)を祀ることもあり、清和天皇の嫡流である源氏は、特に守り神として崇敬。のちに鎌倉に都をおいたときも、石清水八幡宮から勧請した鶴岡八幡宮を中心に都を造っています。
標高143mの男山の山頂に位置しているため、清盛一行は自邸のあった六波羅から徒歩や馬で山を登っていったのでしょう。
現在は、京阪電鉄八幡市駅前から男山ケーブルが出ています。ケーブルカーに乗れば、山頂とは思えない広々とした境内に建つ壮麗な社殿はすぐそこ。展望台からは、西は愛宕山から東は比叡山まで、京都を一望する景色が広がっています。
2.平家の九州の拠点、太宰府 ~ 太宰府天満宮

保元の乱を経て、ひとまわり大きくなった清盛が次に成し遂げたのが、大宰大弐への就任でした。大宰大弐は、武士には授けられない役職。ドラマでは、清盛が租税の集まりの悪い太宰府へみずから赴きます。私服をこやしていた太宰府の役人を、元海賊達を使って制圧しつつ、朝廷での相撲節会の膳を宋の品々でプロデュースすることで、見事大宰大弐の職を手に入れていました。
実際には清盛の弟・頼盛(西島隆弘)を、太宰府に2年ほど滞在させて徹底的な政治改革を実施。当時、大きな権力を持っていた太宰府天満宮(だざいふてんまんぐう・当時は安楽寺)でも、法会を開き法華経を1000部奉納し九州をまとめあげたといわれています。
清盛の死後、源平合戦で幼い安徳天皇を連れて西へ西へと退却していった平家一門が、壇ノ浦で滅亡する前に参拝していたのも太宰府天満宮。このときに、連歌の会も開かれ、
住みなれしふるき都の恋しさは 神も昔におもひしるらむ
〈住み慣れた都の恋しさは、神・菅原道真公もご存じでしょう〉
というなんとも寂しい歌を清盛の五男・重衡(辻本祐樹)が残しています。太宰府市には、重衡のこの歌の歌碑や、清盛の長男である重盛の太刀墓所といわれる史跡などが残されています。
3.清盛ゆかりの出世開運の神さま ~ 若一神社


最後に紹介する清盛ゆかりの神社は、京都の下京区七条に位置する若一神社(にゃくいちじんじゃ)。
若一神社が建つのは、承安年中(1171‐75)に清盛が建てた別邸・西八条御所の跡地。
社伝は清盛との深い縁を残しています。清盛が熊野に詣でたとき、別邸の土のなかに若一王子の御神体が隠されているというご神託がありました。この御神体は、光仁天皇の時代に唐の僧侶・威光上人が熊野から持ち帰ったもの。異変があり土中に長く埋められていたのでした。京に戻った清盛が御神体を掘り起こし、社伝を建てて祀ったのが仁安元年(1166)。翌年の2月10日に太政大臣に上りつめたため、若一神社は出世開運の神さまといわれています。
50もの邸があったと伝えられる西八条御所は、清盛亡きあと焼失してしまいましたが、清盛が手植えしたと伝えられる楠は、800年余たった今も若一神社の御神木として幹を天に伸ばしています。
大楠のほかに、清盛の時代から神前に供えられてきたといわれる御神水や清盛像もあり、清盛が駆け抜けた時代を感じることができるでしょう。